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ADHDの私が英検1級などを取るまで3(大阪気功整体)
タイトル「ADHDの私が英検1級などを取るまで」のあとの 3 というのは、自分なりに何回目の連載か、
考えて載せたものなのですが、
これ、たぶん、数字がまちがっていますね・・
このように、数字に弱いのがわたしです・・・
中学校のときから 落ち着きがなくて
宿題などができてなくて
授業中、後ろや横を向いてしまうことが多かったので よく立たされたり座らされたり(自分の座席のとなりに)していました。
今でいうADHDでしょうし、傘などは、もう100本以上なくしています(これも、途中で数えられなくなってやめました)し、デパートに入りましたら同じ出口から出られません・・・
こんな私が、試験には強かった、というお話をしております(たぶん、シリーズの3-4回目です)
上智大学外国語学部英語学科に入りまして驚いたことは
みなさんが、すでに英語を理解されている、ということでした。
日本の公立中学校では、そんなに英語を話せる人がいなかったものですので
突然、まわりが英語に堪能な人ばかりになり、戸惑いました。
先生は、ほとんど外国のかたで、普通に英語で授業がされていましたが、
冗談を言われたら、みなさん笑われるのです。
私は、全然わからなくて、笑えていませんでした。
そういう人たちは、英語学科では「在日邦人」と呼ばれていました。
全体の1割くらい、いらしたみたいです。
私は、1割の在日邦人だったので、「これは マズイ」
と思いました。
しかし、だからといいまして英語スピーチクラブに入る、といった努力はしませんでした。
たぶん、英語は根底ではニガテだという意識があったのだと思います。
みなさん、英語の歌を聴かれていたり、英語で映画を観られたりされていました。
残念ですが、わたしは全然そのようなことをしてなくて、ただ、受験のためだけの英語をしていたのです。
「英語がリアルに話されているところが想像できない」
じゃー、努力しろよ、と言われそうですが、そのような場面に自分を置くということが、想像すら、できにくかったのです。
(1980年当時です。ALTも始まっていませんでした)
英語で授業されている先生方に近づいて、質問などすることで
徐々に英語力をあげていきました。
しかし60-70点だな、という自覚がありました。
8割も、なかなか分かりません。
友人が「英語のラジオがあるよ」と教えてくれましたので、
1人でいるときには、その放送をつけっぱなしにしていました。
(寮で、82人の女子学生たちと同居していたのです)
そうしましたら、ラジオだけでも しだいに英語に慣れていくのだな、ということが分かりました。
先生のお話が、日々、少しずつですが、ちゃんと聞き取れるようになってきました。
これも、2年くらい かかりましたが、2年の後半では、かなり、9割は聞き取れるようになったのでした。
ものごとは、「石の上にも三年」と言われますが、2年でだいたいの基礎ができて、
あと1年でブラッシュアップするのだろうな、と思いました。
前回 書きましたように、私は、首席になりまして(実力的には、下から2-3割だったと思います。単に努力したのでした)
そのとき、漫画や小説でありますように、「気を失いかける」という経験をしました。
「そんなん・・・ムリ!!」
という心の言葉、です。
実力は、ほんまはないのに、ごめんなさい!!みなさん、という気持ちだったのです。
気を失う、ということは
小説の中のことだけでなく、ホンマに起きるんだな、とわかりました。
ニッセル学部長先生の面接がありました。
そこでは、映画を観て、それについての面接をする、というものでした。
しかし、前述しました通り、映画は英語でほとんど観たことがありませんし、また、その時には、部活で疲れていまして、半分寝てしまいました(!)
ニッセル先生は
「あなたは、成績は、いいけれども~~」
と英語で言われて、総代候補だったのですが、総代にはなれない、とおっしゃいました。
それは、そうです。
私の英語力そのものは、低かったですから。
英語を英語としてとらえる、ということは 正直、できてなかったのでした。
そして、のちに教師になりまして、産休のときに、英検1級に再チャレンジしました。
1人目の子のときには、仕事もなく家事も少なかったですから、勉強三昧できました。
ラジオつけっぱなしで覚えていた「聞きっぱなし勉強法」をしました。
同居していたしゅうともしゅうとめも、一緒に英語を聞いてもらいました(笑
前回、学生時代は2次試験で落ちていたので、スピーチの練習を主にしました。
2分間でスピーチするのですが、封筒に入っているトピックを開いて
「日本経済」
とか
「私の一番好きなもの」
「世界の状況」
とか いったトピックについて 2分しゃべります。
これは、かなり運に左右されるぞ、と思い、
まずは、閉じられた封筒から 簡単なトピックを選ぶ練習をしました(くじ運をあげる練習です)
裏返しにしたトランプから、ハートを選ぶ練習をしました。
そして、ハートが選べるようになってきましたら、11,12,13のカードを選ぶ練習をしました。
(透視力の練習?)
そして、次に
英検1級突破問題集に書いてある例題に対するこたえを2分間ぶん、書きました。
それを覚えて練習しました。
そして、本番は・・
はい、そうです。
一番簡単で、なんと、大学4年生のときと同じ「私の人生で一番印象的だったこと」というトピックを引き当てました。
前回は「バレーボールの試合です」とスピーチしまして、
審査員たちから失笑されました(これは、意味がわからなかったんです。自分としましたは、本当に生涯で一番印象的だった、人生最高のできごとでしたのに・・・)
ですので、今回は、10人中10人が、はあ、なるほど、と言いそうな
海外旅行のトピックを選んで
スムーズにできたのでした。
めでたし、めでたし。
大阪気功整体 太田マスミ masumiota313@@gmail.com
24/08/21
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タイトル「ADHDの私が英検1級などを取るまで」のあとの 3 というのは、自分なりに何回目の連載か、
考えて載せたものなのですが、
これ、たぶん、数字がまちがっていますね・・
このように、数字に弱いのがわたしです・・・
中学校のときから 落ち着きがなくて
宿題などができてなくて
授業中、後ろや横を向いてしまうことが多かったので よく立たされたり座らされたり(自分の座席のとなりに)していました。
今でいうADHDでしょうし、傘などは、もう100本以上なくしています(これも、途中で数えられなくなってやめました)し、デパートに入りましたら同じ出口から出られません・・・
こんな私が、試験には強かった、というお話をしております(たぶん、シリーズの3-4回目です)
上智大学外国語学部英語学科に入りまして驚いたことは
みなさんが、すでに英語を理解されている、ということでした。
日本の公立中学校では、そんなに英語を話せる人がいなかったものですので
突然、まわりが英語に堪能な人ばかりになり、戸惑いました。
先生は、ほとんど外国のかたで、普通に英語で授業がされていましたが、
冗談を言われたら、みなさん笑われるのです。
私は、全然わからなくて、笑えていませんでした。
そういう人たちは、英語学科では「在日邦人」と呼ばれていました。
全体の1割くらい、いらしたみたいです。
私は、1割の在日邦人だったので、「これは マズイ」
と思いました。
しかし、だからといいまして英語スピーチクラブに入る、といった努力はしませんでした。
たぶん、英語は根底ではニガテだという意識があったのだと思います。
みなさん、英語の歌を聴かれていたり、英語で映画を観られたりされていました。
残念ですが、わたしは全然そのようなことをしてなくて、ただ、受験のためだけの英語をしていたのです。
「英語がリアルに話されているところが想像できない」
じゃー、努力しろよ、と言われそうですが、そのような場面に自分を置くということが、想像すら、できにくかったのです。
(1980年当時です。ALTも始まっていませんでした)
英語で授業されている先生方に近づいて、質問などすることで
徐々に英語力をあげていきました。
しかし60-70点だな、という自覚がありました。
8割も、なかなか分かりません。
友人が「英語のラジオがあるよ」と教えてくれましたので、
1人でいるときには、その放送をつけっぱなしにしていました。
(寮で、82人の女子学生たちと同居していたのです)
そうしましたら、ラジオだけでも しだいに英語に慣れていくのだな、ということが分かりました。
先生のお話が、日々、少しずつですが、ちゃんと聞き取れるようになってきました。
これも、2年くらい かかりましたが、2年の後半では、かなり、9割は聞き取れるようになったのでした。
ものごとは、「石の上にも三年」と言われますが、2年でだいたいの基礎ができて、
あと1年でブラッシュアップするのだろうな、と思いました。
前回 書きましたように、私は、首席になりまして(実力的には、下から2-3割だったと思います。単に努力したのでした)
そのとき、漫画や小説でありますように、「気を失いかける」という経験をしました。
「そんなん・・・ムリ!!」
という心の言葉、です。
実力は、ほんまはないのに、ごめんなさい!!みなさん、という気持ちだったのです。
気を失う、ということは
小説の中のことだけでなく、ホンマに起きるんだな、とわかりました。
ニッセル学部長先生の面接がありました。
そこでは、映画を観て、それについての面接をする、というものでした。
しかし、前述しました通り、映画は英語でほとんど観たことがありませんし、また、その時には、部活で疲れていまして、半分寝てしまいました(!)
ニッセル先生は
「あなたは、成績は、いいけれども~~」
と英語で言われて、総代候補だったのですが、総代にはなれない、とおっしゃいました。
それは、そうです。
私の英語力そのものは、低かったですから。
英語を英語としてとらえる、ということは 正直、できてなかったのでした。
そして、のちに教師になりまして、産休のときに、英検1級に再チャレンジしました。
1人目の子のときには、仕事もなく家事も少なかったですから、勉強三昧できました。
ラジオつけっぱなしで覚えていた「聞きっぱなし勉強法」をしました。
同居していたしゅうともしゅうとめも、一緒に英語を聞いてもらいました(笑
前回、学生時代は2次試験で落ちていたので、スピーチの練習を主にしました。
2分間でスピーチするのですが、封筒に入っているトピックを開いて
「日本経済」
とか
「私の一番好きなもの」
とか
「世界の状況」
とか いったトピックについて 2分しゃべります。
これは、かなり運に左右されるぞ、と思い、
まずは、閉じられた封筒から 簡単なトピックを選ぶ練習をしました(くじ運をあげる練習です)
裏返しにしたトランプから、ハートを選ぶ練習をしました。
そして、ハートが選べるようになってきましたら、11,12,13のカードを選ぶ練習をしました。
(透視力の練習?)
そして、次に
英検1級突破問題集に書いてある例題に対するこたえを2分間ぶん、書きました。
それを覚えて練習しました。
そして、本番は・・
はい、そうです。
一番簡単で、なんと、大学4年生のときと同じ「私の人生で一番印象的だったこと」というトピックを引き当てました。
前回は「バレーボールの試合です」とスピーチしまして、
審査員たちから失笑されました(これは、意味がわからなかったんです。自分としましたは、本当に生涯で一番印象的だった、人生最高のできごとでしたのに・・・)
ですので、今回は、10人中10人が、はあ、なるほど、と言いそうな
海外旅行のトピックを選んで
スムーズにできたのでした。
めでたし、めでたし。
大阪気功整体 太田マスミ masumiota313@@gmail.com
住所 〒530-0041 大阪府大阪市北区天神橋2-3-10 607
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